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芥川竜之介『蜘蛛の糸』、青空文庫

蜘蛛の糸 日本語記事
蜘蛛の糸

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はじめに

 この作品(さくひん)は、御釈迦(おしゃか)(さま)地獄(じごく)()ちた(ごく)悪人(あくにん)のカンダタに一度(いちど)善行(ぜんこう)(おも)()し、蜘蛛(くも)(いと)()らして(すく)おうとする物語(ものがたり)ですが、カンダタが自分(じぶん)だけ(たす)かろうとして(ほか)罪人(ざいにん)()(はら)おうとした瞬間(しゅんかん)(いと)()れ、(かれ)(ふたた)地獄(じごく)()ちてしまいます。

自分(じぶん)だけ(たす)かればいい」という自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)な考えにより、救済(きゅうさい)(みち)()ざされたことを(しめ)し、仏教的(ぶっきょうてき)観点(かんてん)から、自己(じこ)利益(りえき)だけを(もと)める姿勢(しせい)(さと)りや救済(きゅうさい)にはつながらないという教訓(きょうくん)()められています。

この作品(さくひん)は、()ども()けの道徳(どうとく)教材(きょうざい)としても(あつか)われることがあるのは、その寓話的(ぐうわてき)要素(ようそ)(つよ)いためと(おも)われます。

芥川龍之介(ウィキペディア)

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芥川竜之介作『蜘蛛の糸』

 ある()(こと)でございます。御釈迦(おしゃか)(さま)極楽(ごくらく)蓮池(はすいけ)のふちを、(ひと)りでぶらぶら御歩(おある)きになっていらっしゃいました。(いけ)(なか)()いている(はす)(はな)は、みんな(たま)のようにまっ(しろ)で、そのまん(なか)にある金色(きんいろ)(ずい)からは、(なん)とも()えない()(におい)が、絶間(たえま)なくあたりへ(あふ)れて()ります。極楽(ごくらく)丁度(ちょうど)(あさ)なのでございましょう。

 やがて御釈迦(おしゃか)(さま)はその(いけ)のふちに御佇(おたたず)みになって、(みず)(おもて)(おお)っている(はす)()(あいだ)から、ふと(した)容子(ようす)御覧(ごらん)になりました。この極楽(ごくらく)蓮池(はすいけ)(した)は、丁度(ちょうど)地獄(じごく)(そこ)(あた)って()りますから、水晶(すいしょう)のような(みず)()(とお)して、三途(さんず)(かわ)(はり)(やま)景色(けしき)が、丁度(ちょうど)(のぞ)眼鏡(めがね)()るように、はっきりと()えるのでございます。

 するとその地獄(じごく)(そこ)に、カンダタと()(おとこ)一人(ひとり)、ほかの罪人(ざいにん)(いっ)しょに(うごめ)いている姿(すがた)が、御眼(おめ)()まりました。このカンダタと()(おとこ)は、(ひと)(ころ)したり(いえ)()をつけたり、いろいろ悪事(あくじ)(はたら)いた大泥坊(だいどろぼう)でございますが、それでもたった(ひと)つ、()(こと)(いた)した(おぼ)えがございます。と(もう)しますのは、ある(とき)この(おとこ)(ふか)(はやし)(なか)(とお)りますと、(ちい)さな蜘蛛(くも)一匹(いっぴき)(みち)ばたを()って()くのが()えました。そこでカンダタは(さっ)(そく)(あし)()げて、()(ころ)そうと(いた)しましたが、「いや、いや、これも(ちい)さいながら、(いのち)のあるものに(ちが)いない。その(いのち)無暗(むやみ)にとると()(こと)は、いくら(なん)でも可哀(かわい)そうだ。」と、こう(きゅう)(おも)(かえ)して、とうとうその蜘蛛(くも)(ころ)さずに(たす)けてやったからでございます。

 御釈迦(おしゃか)(さま)地獄(じごく)容子(ようす)御覧(ごらん)になりながら、このカンダタには蜘蛛(くも)(たす)けた(こと)があるのを御思(おおも)()しになりました。そうしてそれだけの()(こと)をした(むくい)には、出来(でき)るなら、この(おとこ)地獄(じごく)から(すく)()してやろうと御考(おかんが)えになりました。(さいわ)い、(そば)()ますと、翡翠(ひすい)のような(いろ)をした(はす)()(うえ)に、極楽(ごくらく)蜘蛛(くも)一匹(いっぴき)(うつく)しい銀色(ぎんいろ)(いと)をかけて()ります。御釈迦(おしゃか)(さま)はその蜘蛛(くも)(いと)をそっと御手(おて)御取(おと)りになって、(たま)のような白蓮(しらはす)(あいだ)から、(はる)(した)にある地獄(じごく)(そこ)へ、まっすぐにそれを御下(おおろ)しなさいました。

 こちらは地獄(じごく)(そこ)()(いけ)で、ほかの罪人(ざいにん)(いつ)しょに、()いたり(しず)んだりしていたカンダタでございます。(なに)しろどちらを()ても、まっ(くろ)で、たまにそのくら(やみ)からぼんやり()(あが)っているものがあると(おも)いますと、それは(おそ)しい(はり)(やま)(はり)(ひか)るのでございますから、その心細(こころぼそ)さと()ったらございません。その(うえ)あたりは(はか)(なか)のようにしんと(しず)まり(かえ)って、たまに(きこ)えるものと()っては、ただ罪人(ざいにん)がつく(かすか)嘆息(たんそく)ばかりでございます。これはここへ()ちて()るほどの人間(にんげん)は、もうさまざまな地獄(じごく)責苦(せめく)(つか)れはてて、泣声(なきごえ)()(ちから)さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊(だいどろぼう)のカンダタも、やはり()(いけ)()(むせ)びながら、まるで()にかかった(かわず)のように、ただもがいてばかり()りました。

 ところがある(とき)(こと)でございます。何気(なにげ)なくカンダタが(あたま)()げて、()(いけ)(そら)(なが)めますと、そのひっそりと(やみ)(なか)を、(とお)(とお)天上(てんじょう)から、銀色(ぎんいろ)蜘蛛(くも)(いと)が、まるで人目(ひとめ)にかかるのを(おそ)れるように、(ひと)すじ(ほそ)(ひか)りながら、するすると自分(じぶん)(うえ)()れて(まい)るのではございませんか。カンダタはこれを()ると、(おも)わず()()って(よろこ)びました。この(いと)(すが)りついて、どこまでものぼって()けば、きっと地獄(じごく)からぬけ()せるのに相違(そうい)ございません。いや、うまく()くと、極楽(ごくらく)へはいる(こと)さえも出来(でき)ましょう。そうすれば、もう(はり)(やま)()()げられる(こと)もなくなれば、()(いけ)(しず)められる(こと)もある(はず)はございません。

 こう(おも)いましたからカンダタは、早速(さっそく)その蜘蛛(くも)(いと)両手(りょうて)でしっかりとつかみながら、一生懸命(いっしょうけんめい)(うえ)(うえ)へとたぐりのぼり(はじ)めました。(もとより)大泥坊(おおどろぼう)(こと)でございますから、こう()(こと)には(むかし)から、()()っているのでございます。

 しかし地獄(じごく)極楽(ごくらく)との(あいだ)は、(なん)万里(まんり)となくございますから、いくら(あせ)って()(ところ)で、容易(ようい)(うえ)へは()られません。ややしばらくのぼる(うち)に、とうとうカンダタもくたびれて、もう(ひと)たぐりも(うえ)(ほう)へはのぼれなくなってしまいました。そこで仕方(しかた)がございませんから、まず(ひと)(やす)(やす)むつもりで、(いと)中途(ちゅうと)にぶら(さがり)りながら、(はる)かに()(した)見下(みおろ)しました。

 すると、一生懸命(いっしょうけんめい)にのぼった甲斐(かい)があって、さっきまで自分(じぶん)がいた()(いけ)は、(いま)ではもう(やみ)(そこ)にいつの()にかかくれて()ります。それからあのぼんやり(ひか)っている(おそろ)しい(はり)(やま)も、(あし)(した)になってしまいました。この(ぶん)でのぼって()けば、地獄(じごく)からぬけ()すのも、存外(ぞんがい)わけがないかも()れません。カンダタは両手(りょうて)蜘蛛(くも)(いと)にからみながら、ここへ()てから何年(なんねん)にも()した(こと)のない(こえ)で、「しめた。しめた。」と(わら)いました。ところがふと()がつきますと、蜘蛛(くも)(いと)(した)(ほう)には、数限(かずかぎり)もない罪人(ざいにん)たちが、自分(じぶん)ののぼった(あと)をつけて、まるで(あり)行列(ぎょうれつ)のように、やはり(うえ)(うえ)一心(いっしん)によじのぼって()るではございませんか。カンダタはこれを()ると、(おどろ)いたのと(おそろ)しいのとで、しばらくはただ、莫迦(ばか)のように(おお)きな(くち)()いたまま、()ばかり(うご)かして()りました。自分(じぶん)一人(ひとり)でさえ()れそうな、この(ほそ)蜘蛛(くも)(いと)が、どうしてあれだけの人数(にんずう)(おも)みに()える(こと)出来(でき)ましょう。もし万一(まんいち)途中(とちゅう)()れたと(いた)しましたら、折角(せっかく)ここへまでのぼって()たこの肝腎(かんじん)自分(じぶん)までも、(もと)地獄(じごく)逆落(さかおと)しに()ちてしまわなければなりません。そんな(こと)があったら、大変(たいへん)でございます。が、そう()(うち)にも、罪人(ざいにん)たちは何百(なんびゃく)となく何千(なんぜん)となく、まっ(くろ)()(いけ)(そこ)から、うようよと()(あが)って、(ほそ)(ひか)っている蜘蛛(くも)(いと)を、一列(いちれつ)になりながら、せっせとのぼって(まい)ります。(いま)(うち)にどうかしなければ、(いと)はまん(なか)から(ふた)つに()れて、()ちてしまうのに(ちが)いありません。

 そこでカンダタは(おお)きな(こえ)()して、「こら、罪人(ざいにん)ども。この蜘蛛(くも)(いと)(おれ)のものだぞ。お(まえ)たちは一体(いったい)(だれ)()いて、のぼって()た。()りろ。()りろ。」と(わめ)きました。

 その途端(とたん)でございます。(いま)まで(なん)ともなかった蜘蛛(くも)(いと)が、(きゅう)にカンダタのぶら(さが)っている(ところ)から、ぷつりと(おと)()てて()れました。ですからカンダタもたまりません。あっと()()もなく(かぜ)()って、独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、()()(うち)(やみ)(そこ)へ、まっさかさまに()ちてしまいました。

 (あと)にはただ極楽(ごくらく)蜘蛛(くも)(いと)が、きらきらと(ほそ)(ひか)りながら、(つき)(ほし)もない(そら)中途(ちゅうと)に、(みじか)()れているばかりでございます。

 御釈迦(おしゃか)(さま)極楽(ごくらく)蓮池(はすいけ)のふちに()って、この一部(いちぶ)始終(しじゅう)をじっと()ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが()(いけ)(そこ)(いし)のように(しず)んでしまいますと、(かな)しそうな御顔(おかお)をなさりながら、またぶらぶら御歩(おある)きになり(はじ)めました。自分(じぶん)ばかり地獄(じごく)からぬけ()そうとする、カンダタの無慈悲(むじひ)(こころ)が、そうしてその(こころ)相当(そうとう)(ばつ)をうけて、(もと)地獄(じごく)()ちてしまったのが、御釈迦(おしゃか)(さま)御目(おめ)から()ると、浅間(あさま)しく思召(おぼしめ)されたのでございましょう。

 しかし極楽(ごくらく)蓮池(はすいけ)(はす)は、(すこ)しもそんな(こと)には頓着(とんじゃく)(いた)しません。その(たま)のような(しろ)(はな)は、御釈迦(おしゃか)(さま)御足(おみあし)のまわりに、ゆらゆら(うてな)(うご)かして、そのまん(なか)にある金色(きんいろ)(ずい)からは、(なん)とも()えない()(におい)が、絶間(たえま)なくあたりへ(あふ)れて()ります。極楽(ごくらく)ももう(ひる)(ちか)くなったのでございましょう。

(大正七年四月十六日)

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