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太宰治『たずねびと』、青空文庫

たずねびと 日本語記事
たずねびと

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はじめに

 この作品(さくひん)戦後(せんご)混乱期(こんらんき)()かれており、太宰(だざい)自身(じしん)時代(じだい)変化(へんか)人々(ひとびと)価値観(かちかん)()らぎを(つよ)(かん)じていたことが推察(すいさつ)されます。

この小説(しょうせつ)には、孤独(こどく)喪失感(そうしつかん)色濃(いろこ)(あらわ)れており、(だれ)かを(もと)め、(さが)(つづ)けるという太宰(だざい)自身(じしん)人生(じんせい)(かん)にも(ふか)(むす)びついているように(かん)じます。

社会(しゃかい)から疎外(そがい)された人々(ひとびと)や、理解(りかい)されない孤独(こどく)人々(ひとびと)登場(とうじょう)し、そして人間(にんげん)(よわ)さや(あたた)かみを(かん)じさせる素晴(すば)らしい作品(さくひん)です。

太宰治(ウィキペディア)

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太宰治作『たずねびと』

 この「東北(とうほく)文学(ぶんがく)」という雑誌(ざっし)貴重(きちょう)紙面(しめん)(はし)をわずか拝借(はいしゃく)して(もう)()げます。どうして(とく)にこの「東北文学(とうほくぶんがく)」という雑誌(ざっし)紙面(しめん)をお()りするかというと、それには(つぎ)のような理由(りゆう)があるのです。

 この「東北文学(とうほくぶんがく)」という雑誌(ざっし)は、ご承知(しょうち)(ごと)く、仙台(せんだい)河北新報社(かほくしんぽうしゃ)から発行(はっこう)せられて、それは勿論(もちろん)関東(かんとう)関西(かんさい)四国(しこく)九州(きゅうしゅう)店頭(てんとう)にも姿(すがた)をあらわしているに(ちが)いありませぬが、しかし、この雑誌(ざっし)のおもな読者(どくしゃ)はやはり東北(とうほく)地方(ちほう)、しかも仙台(せんだい)附近(ふきん)(もっと)(おお)いのではないかと推量(すいりょう)されます。

 (わたし)はそれを(たの)みの(つな)として、この「東北文学(とうほくぶんがく)」という文学(ぶんがく)雑誌(ざっし)片隅(かたすみ)()り、(もう)()げたい(こと)があるのです。

 (じつ)は、お()いしたいひとがあるのです。お名前(なまえ)も、御住所(ごじゅうしょ)もわからないのですが、たしかに仙台(せんだい)()か、その附近(ふきん)のおかたでは()かろうかと(おも)っています。(おんな)のひとです。

 仙台(せんだい)()から発行(はっこう)せられている「東北文学(とうほくぶんがく)」という雑誌(ざっし)片隅(かたすみ)に、(わたし)がこのまずしい手記(しゅき)()せてもらおうと(おも)()ったのも、そのひとが仙台(せんだい)()(ある)いはその(ちか)くの土地(とち)()んでいるように(おも)われて、ひょっとしたら、(わたし)のこの手記(しゅき)がそのひとの()にふれる(こと)がありはせぬか、またはそのひとの()にふれずとも、そのひとの知合(しりあ)いのお(かた)()んで、そのひとに()げるとか、そのような(まん)(ひと)つの僥倖(ぎょうこう)が、……いやいや、それは無理(むり)だ、そんな(こと)()りっこ()いよ、いやいや、その無理(むり)充分(じゅうぶん)にわかっていますが、しかし、(わたし)としてはそんな()りっこ()(こと)をも、あてにして()かずに()られない気持(きもち)なのです。

「お(じょう)さん。あの(とき)は、たすかりました。あの(とき)乞食(こじき)(わたし)です。」

 その言葉(ことば)が、あの(おんな)のひとの(みみ)にまでとどかざる(こと)、あたかも、一勇士(いちゆうし)(とむ)らわんとて飛行機(ひこうき)()り、その勇士(ゆうし)(ねむ)れる戦場(せんじょう)上空(じょうくう)より一束(ひとたば)(はな)(とう)じても、(けっ)してその勇士(ゆうし)(ほね)()められたる個所(かしょ)には落下(らっか)せず、あらぬかなたの(もり)()(わし)()にばさと()ちて(ひな)をいたずらに驚愕(きょうがく)せしめ、(ある)いはむなしく海波(うみなみ)(あいだ)(うか)(ただよ)うが(ごと)結末(けつまつ)になると(ひと)しく、これは畢竟(ひっきょう)、とどくも(とど)かざるも問題(もんだい)でなく、その言葉(ことば)もしくは花束(はなたば)(とう)じた当人(とうにん)()がすめば、それでよろしいという(はなは)身勝手(みがって)なたくらみにすぎないようにも(おも)われますが、それでもやはり(わたし)()いたいのです。

「お(じょう)さん。あの(とき)は、たすかりました。あの(とき)乞食(こじき)は、(わたし)です。」と。

 昭和(しょうわ)二十年(にじゅうねん)七月(しちがつ)(すえ)に、(わたし)たち家族四人(かぞくよにん)上野(うえの)から汽車(きしゃ)()りました。(わたし)たちは東京(とうきょう)罹災(りさい)してそれから甲府(こうふ)避難(ひなん)して、その甲府(こうふ)でまた(まる)()けになって、それでも戦争(せんそう)はまだまだ(つづ)くというし、どうせ()ぬのならば、故郷(こきょう)()んだほうがめんどうが()くてよいと(おも)い、(わたし)(つま)五歳(ごさい)(おんな)()二歳(にさい)(おとこ)()()れて甲府(こうふ)出発(しゅっぱつ)し、その()のうちに上野(うえの)から青森(あおもり)(むか)急行列車(きゅうこうれっしゃ)()()むつもりであったのですが、空襲(くうしゅう)警報(けいほう)なんかが()て、上野(うえの)(えき)(じゅう)(まん)していた数千(すうせん)旅客(りょかく)たちが殺気(さっき)()ち、(おさな)子供(こども)()れている(わたし)たちは、はねとばされ()たおされるような、ひどいめに()い、とてもその急行列車(きゅうこうれっしゃ)には()()めず、とうとうその()は、上野(うえの)(えき)改札口(かいさつぐち)(そば)で、ごろ()という(こと)になりました。

その(よる)は、(すご)月夜(つきよ)でした。()ふけてから(わたし)はひとりで(そと)()()ました。このあたりも、まず、あらかた()かれていました。(わたし)上野(うえの)公園(こうえん)石段(いしだん)(のぼ)り、南洲(なんしゅう)銅像(どうぞう)のところから浅草(あさくさ)のほうを(なが)めました。湖水(こすい)(そこ)水草(みずくさ)のむらがりを()(おも)いでした。

これが東京(とうきょう)()おさめだ、十五年前(じゅうごねんまえ)本郷(ほんごう)学校(がっこう)へはいって以来(いらい)、ずっと(わたし)(そだ)ててくれた東京(とうきょう)というまちの()おさめなのだ、と(おも)ったら、さすがに平静(へいせい)気持(きもち)では()られませんでした。

翌朝(よくあさ)とにかく上野(うえの)(えき)から一番(いちばん)(はや)()汽車(きしゃ)、それはどこへ()汽車(きしゃ)だってかまわない、(きた)のほうへ五里(ごり)でも六里(ろくり)でも()汽車(きしゃ)があったら、それに()ろうという(こと)になって、上野(うえの)(えき)(はつ)一番(いちばん)列車(れっしゃ)夜明(よあ)けの五時(ごじ)十分発(じゅぷんはつ)白河(しらかわ)()きに()()みました。

白河(しらかわ)には、すぐ()きました。(わたし)たちはそこで(おろ)されて、こんどはまた白河(しらかわ)から五里(ごり)でも六里(ろくり)でも(きた)()汽車(きしゃ)をつかまえて、それに()()(こと)にしました。午後(ごご)一時(いちじ)(はん)に、小牛田(こごた)()きの汽車(きしゃ)白河(しらかわ)(えき)にはいりましたので、親子四人(おやこよんにん)、その列車(れっしゃ)(まど)から()()みました。

(まえ)汽車(きしゃ)(ちが)って、こんどの汽車(きしゃ)は、ものすごく混雑(こんざつ)していました。
それにひどい(あつ)さで、(つま)のはだけた(むね)()()まれている二歳(にさい)(おとこ)()は、ひいひい()(どお)しでした。
この(した)()は、母体(ぼたい)栄養(えいよう)不良(ふりょう)のために()れた(とき)から(よわ)(ちい)さく、また母乳(ぼにゅう)不足(ぶそく)のためにその()発育(はついく)(おも)わしくなくて、ただもう()きて(うご)いているだけという(かん)じで、また(うえ)五歳(ごさい)(おんな)()は、からだは割合(わりあい)丈夫(じょうぶ)でしたが、甲府(こうふ)罹災(りさい)する(すこ)(まえ)から結膜炎(けつまくえん)(わずら)い、空襲(くうしゅう)当時(とうじ)はまったく()()えなくなって、(わたし)はそれを背負(せお)って(ほのお)(あめ)(した)()げまわり、()(のこ)った病院(びょういん)(さが)して手当(てあて)()け、三週間(さんしゅうかん)ほど甲府(こうふ)でまごまごして、やっとこの()()があいたので、(わたし)たちもこの()()れて甲府(こうふ)出発(しゅっぱつ)する(こと)出来(でき)たというわけなのでした。

それでも、やはり夕方(ゆうがた)になると、この()()がふさがってしまって、そうして(あさ)になっても()がひらかず、(わたし)医者(いしゃ)からもらって()硼酸水(ほうさんすい)でその()(あら)ってやって、それから眼薬(がんやく)をさして、それからしばらく()たなければ()があかないという有様(ありさま)でした。

その(あさ)上野(うえの)(えき)汽車(きしゃ)()(とき)にも、この()()がなかなか()かなかったので、(わたし)(ゆび)無理(むり)にあけたら、()がたらたら()ました。

つまり(わたし)たちの一行(いっこう)は、(きたな)いシャツに(いろ)のさめた(こん)木綿(もめん)のズボン、それにゲエトルをだらしなく()きつけ、地下足袋(じかたび)蓬髪(うはつ)無帽(むぼう)という姿(すがた)父親(ちちおや)と、それから、(かみ)(みだ)れて(かお)のあちこちに(すす)がついて、粗末(そまつ)(きわ)まるモンペをはいて(むね)をはだけている母親(ははおや)と、それから眼病(がんびょう)(おんな)()と、それから()せこけて()(さけ)(おとこ)()という、まさしく乞食(こじき)家族(かぞく)(ちが)いなかったわけです。

 (した)(おとこ)()が、いつまでも、ひいひい()きつづけ、その(くち)(つま)乳房(ちぶさ)()しつけても、ちっとも(ちち)()ないのを()っているので(かお)をそむけ、のけぞっていよいよ(はげ)しく()きわめきます。
(ちか)くに()っていたやはり()()ちの(おんな)のひとが()かねたらしく、
「お(ちち)()ないのですか?」
 と(つま)話掛(はなしか)けて()ました。

「ちょっと、あたしに()かせて(くだ)さい。あたしはまた、(ちち)がありあまって。」
 (つま)()(さけ)()を、そのおかみさんに手渡(てわた)しました。

そのおかみさんの乳房(ちぶさ)からは(ちち)がよく()ると()えて、子供(こども)はすぐに()きやみました。
「まあ、おとなしいお()さんですね。()いかたがお上品(じょうひん)で。」
「いいえ、(よわ)いのですよ。」
 と(つま)()いますと、そのおかみさんも、(さび)しそうな(かお)をして、(すこ)(わら)い、
「うちの子供(こども)などは、そりゃもう()(かた)乱暴(らんぼう)で、ぐいぐいと、(いた)いようなんですけれども、この(ぼっ)ちゃんは、まあ、遠慮(えんりょ)しているのかしら。」
 (よわ)()は、母親(ははおや)でないひとの乳房(ちぶさ)をふくんで(ねむ)りました。

 汽車(きしゃ)郡山駅(こおりやまえき)()きました。
(えき)は、たったいま爆撃(ばくげき)せられたらしく、火薬(かやく)(にお)いみたいなものさえ(かん)ぜられたくらいで、倒壊(とうかい)した(えき)建物(たてもの)から黄色(きいろ)(すな)ほこりが濛々(もうもう)()()っていました。

 ちょうど、東北(とうほく)地方(ちほう)がさかんに空襲(くうしゅう)()けていた(ころ)で、仙台(せんだい)(すで)大半(たいはん)()かれ、また(わたし)たちが上野(うえの)(えき)のコンクリートの(うえ)にごろ()をしていた(よる)には、青森市(あおもりし)(たい)して焼夷弾(しょういだん)攻撃(こうげき)(おこな)われたようで、汽車(きしゃ)北方(ほっぽう)進行(しんこう)するにつれて、そこもやられた、ここもやられたという(うわさ)(みみ)にはいり、(こと)青森(あおもり)地方(ちほう)は、ひどい被害(ひがい)のようで、青森県(あおもりけん)交通(こうつう)全部(ぜんぶ)がとまっているなどという誇大(こだい)なことを真面目(まじめ)くさって()うひともあり、いつになったら津軽(つがる)(はて)故郷(こきょう)へたどり()(こと)出来(でき)るやら、まったく暗澹(あんたん)たる気持(きもち)でした。

 福島(ふくしま)()ぎた(ころ)から、客車(きゃくしゃ)(すこ)しすいて()て、(わたし)たちも、やっと座席(ざせき)(こし)かけられるようになりました。
ほっと一息(ひといき)ついたら、こんどは、食料(しょくりょう)不安(ふあん)()ちあがりました。
おにぎりは三日分(みっかぶん)くらい用意(ようい)して()たのですが、ひどい暑気(しょき)のために、ごはん(つぶ)納豆(なっとう)のように(いと)をひいて、(くち)()れて()んでもにちゃにちゃして、とても()()(こと)出来(でき)ない(あり)(さま)になって()ました。
(した)(おとこ)()には、(こな)ミルクをといてやっていたのですが、ミルクをとくにはお()でないと具合(ぐあい)がわるいので、それはどこか(えき)途中(とちゅう)下車(げしゃ)した(とき)駅長(えきちょう)にでもわけを(はな)してお()をもらって(ちち)をこしらえるという(こと)にして、汽車(きしゃ)(なか)では、やわらかい()しパンを(すこ)しずつ(あた)えるようにしていたのです。
ところがその()しパンも、その外皮(がいひ)(すで)にぬらぬらして()て、みんな()てなければならなくなっていました。
あと、()べるものといっては、()った(まめ)があるだけでした。
(すこ)()っているお(こめ)は、これはいずれどこかで
途中(とちゅう)下車(げしゃ)になった(とき)宿屋(やどや)でごはんとかえてもらうのに役立(やくだ)つかも()れませんが、さしあたって、きょうこれからの()べるものに(きゅう)してしまいました。
(ちち)(はは)は、()(まめ)をかじり(みず)()んでも、一日(いちにち)二日(ふつか)我慢(がまん)できるでしょうが、(いつ)つの(むすめ)(ふた)つの息子(むすこ)は、めもあてられぬ有様(ありさま)になるにきまっています。(した)(おとこ)()先刻(せんこく)のもらい(ちち)のおかげで、うとうと(ねむ)っていますが、(うえ)(おんな)()は、もはや()(まめ)にもあきて、よそのひとがお弁当(べんとう)()べているさまをじっと(にら)んだりして、そろそろ浅間(あさま)しくなりかけているのです。

 ああ、人間(にんげん)は、ものを()べなければ()きて()られないとは、(なん)という不体裁(ふていさい)(こと)でしょう。「おい、戦争(せんそう)がもっと苛烈(かれつ)になって()て、にぎりめし(ひと)つを(うば)()いしなければ()きてゆけないようになったら、おれはもう、()きるのをやめるよ。にぎりめし争奪戦(そうだつせん)参加(さんか)権利(けんり)放棄(ほうき)するつもりだからね。()(どく)だが、お(まえ)もその(とき)には子供(こども)一緒(いっしょ)()ぬる覚悟(かくご)をきめるんだね。それがもう、いまでは、おれの唯一(ゆいいつ)の、せめてものプライドなんだから。」とかねて(つま)(むか)って宣言(せんげん)していたのですが、「その(とき)」がいま()たように(おも)われました。

 窓外(そうがい)風景(ふうけい)をただぼんやり(なが)めているだけで、(わたし)には(べつ)になんのいい智慧(ちえ)(おも)(うか)びません。(ある)(ちい)さい(えき)から、(もも)とトマトの(いっ)ぱいはいっている(かご)をさげて()()んで()たおかみさんがありました。

 たちまち、そのおかみさんは乗客(じょうきゃく)たちに包囲(ほうい)され、(なに)かひそひそ(ささ)やかれています。「だめだよ。」とおかみさんは強気(つよき)のひとらしく、甲高(かんだか)(こえ)拒否(きょひ)し、「()(もの)じゃないんだ。とおしてくれよ、(ある)かれないじゃないか!」人波(ひとなみ)をかきわけて、まっすぐに(わたし)のところへ()(わたし)のとなりに(すわ)()みました。


 この(とき)の、(わたし)気持(きもち)は、(みょう)なものでした。(わたし)自分(じぶん)を、(おんな)心理(しんり)非常(ひじょう)通暁(つうぎょう)している一種(いっしゅ)色魔(しきま)なのではないかしらと錯覚(さっかく)し、いやらしい(おも)いをしました。ボロ(ふく)乞食(こじき)姿(すがた)で、子供(こども)二人(ふたり)()れている(しき)()もないものですが、しかし、(かす)かに(わたし)には心理(しんり)駈引(かけひ)きがあったのです。(ほか)乗客(じょうきゃく)が、その果物(くだもの)(かご)をめがけて(あつま)大騒(おおさわ)ぎをしているあいだも、(わたし)はそれには(まった)興味(きょうみ)がなさそうに、(まど)(そと)景色(けしき)をぼんやり(なが)めていたのです。内心(ないしん)は、(わたし)こそ(だれ)よりも(もっと)も、その(かご)内容物(ないようぶつ)関心(かんしん)()っていたに(ちが)いないのですが、けれども(わたし)は、我慢(がまん)してその方向(ほうこう)には一瞥(いちべつ)もくれなかったのでした。それが成功(せいこう)したのかも()れない、と(おも)うと、なんだか自分(じぶん)が、案外(あんがい)(おんな)たらしの才能(さいのう)のある(おとこ)のような(かん)じがして、うしろぐらい()(いた)しました。

「どこまで?」
 おかみさんは、せかせかした口調(くちょう)で、(まえ)(せき)(すわ)っている(つま)(はなし)()けます。
青森(あおもり)のもっと(むこ)うです。」
 と(つま)はぶあいそに(こた)えます。
「それは、たいへんだね。やっぱり罹災(りさい)したのですか。」
「はあ。」
 (つま)は、いったいに、無口(むくち)(おんな)です。
「どこで?」
甲府(こうふ)で。」
子供(こども)()れているんでは、やっかいだ。あがりませんか?」
 (もも)とトマトを(とう)ばかり、すばやく(つま)(ひざ)(うえ)()せてやって、
(かく)して(くだ)さい。(ほか)野郎(やろう)たちが、うるさいから。」
 (はた)して、大型(おおがた)紙幣(しへい)片手(かたて)(にぎ)ってそれとなく()せびらかし、「いくつでもいいよ、()ってくれ」と小声(こごえ)()って(せま)(おとこ)があらわれました。
「うるさいよ。」
 おかみさんは(かお)をしかめ、
()(もの)じゃないんだよ。」
 と(さけ)んで()(はら)います。

 それから、(つま)は、まずい(こと)仕出(しで)かしました。突然(とつぜん)(かね)を、そのおかみさんに(にぎ)らせようとしたのです。たちまち、
 ま!
 いや!
 いいえ!
 さ!
 どう!
 などと、(ほと)んど言葉(ことば)にも(なに)もなっていない(ちい)さい(さけ)びが二人(ふたり)(くち)から交互(こうご)火花(ひばな)(ごと)くぱっぱっと()()て、そのあいだ、()にもとまらぬ(はや)さでお(かね)がそっちへ()ったりこっちへ()たりしていました。
 じんどう!
 たしかに、おかみさんの(くち)から、そんな言葉(ことば)()()しました。
「そりゃ、失礼(しつれい)だよ。」
 と(わたし)(ひく)(こえ)()って(つま)をたしなめました。

 こうして()くと(なが)たらしくなりますが、(つま)がお(かね)()して、それから火花(ひばな)がぱっぱっと()って、それから(わたし)仲裁(ちゅうさい)にはいって、(つま)がしぶしぶまた(かね)をひっこめるまで五秒(ごびょう)とかからなかったでしょう。(じつ)電光(でんこう)(ごと)く、一瞬(いっしゅん)のあいだの出来(こと)でした。

 (わたし)観察(かんさつ)()れば、そのおかみさんが「()(もの)でない」と()ってはいるけれども、しかし、それは汽車(きしゃ)(なか)では()りたくないというだけの(こと)で、やはり(しょう)売人(ばいにん)(ちが)いないのでした。自分(じぶん)(いえ)()(はこ)んで、それを(だれ)特定(とくてい)(にと)にゆずるのかどうか、そこまではわかりませんが、とにかく「()(もの)」には(ちが)いないようでした。しかし、(すで)人道(じんどう)というけなげな言葉(ことば)(はっ)せられている以上(いじょう)(わたし)たちはそのおかみさんを商売人(しょうばいにん)として(あつか)うわけにはゆかなくなりました。

 人道。
 もちろん、おかみさんのその心意気(こころいき)を、ありがたく、うれしく(おも)わぬわけではないのですが、しかしまた、胸底(むなぞこ)()いていささか閉口(へいこう)()もありました。

 人道(じんどう)
 (わたし)は、お(れい)言葉(ことば)(きゅう)しました。思案(しあん)のあげく、(わたし)のいま()っているもので一ばん大事(だいじ)なものを、このおかみさんに差上(さしあ)げる(こと)にしました。(わたし)にはまだ煙草(たばこ)二十本(にじゅうぽん)ほどありました。そのうちの十本(じっぽん)を、(わたし)はおかみさんに()()しました。
 おかみさんは、お(かね)(とき)ほど(つよ)(きょ)(ぜつ)しませんでした。(わたし)は、やっと、ほっとしました。そのおかみさんは仙台(せんだい)(すこ)手前(てまえ)(ちい)さい(えき)下車(げしゃ)しましたが、おかみさんがいなくなってから、(わたし)(つま)(むか)って苦笑(くしょう)し、
人道(じんどう)には、おどろいたな。」
 と恩人(おんじん)をひやかすような(こと)(ひく)()いました。乞食(こじき)()()しみというのでしょうか、虚栄(きょえい)というのでしょうか。アメリカの烏賊(いか)缶詰(かんづめ)(あじ)を、ひそひそ批評(ひひょう)しているのと相似(あいに)たる心理(しんり)でした。まことに、どうも、()(がた)いものです。

 (わたし)たちの計画(けいかく)は、とにかくこの汽車(きしゃ)終点(しゅうてん)小牛田(こごた)まで()き、東北(とうほく)本線(ほんせん)では青森市(あおもりし)のずっと手前(てまえ)下車(げしゃ)(めい)ぜられるという(うわさ)()いているし、また本線(ほんせん)混雑(こんざつ)はよほどのものだろうと(おも)われ、とても親子四人(おやこよんにん)がその(なか)()()める自信(じしん)()かったし、方向(ほうこう)をかえて、小牛田(こごた)から日本海(にほんかい)のほうに()け、つまり小牛田(こごた)から陸羽(りくう)(せん)()りかえて山形県(やまがたけん)新庄(しんじょう)()て、それから奥羽(おうう)(せん)()りかえて北上(ほくじょう)し、秋田(あきた)()(ひがし)能代駅(のしろえき)下車(げしゃ)し、そこから()(のう)(せん)()りかえ、()わば、青森県(あおもりけん)裏口(うらぐち)からはいって()って五所川原駅(ごしょがわらえき)()りて、それからいよいよ津軽(つがる)鉄道(てつどう)()りかえて(うま)故郷(こきょう)金木(かなぎ)という(まち)にたどり()くという段取(だんど)りであったのですが、(おも)えば前途(ぜんと)雲煙(うんえん)のかなたにあり、うまくいっても三昼夜(さんちゅうや)はたっぷりかかる旅程(りょてい)なのです。

 トマトと(もも)恵投(けいとう)にあずかり、これで(うえ)()のきょう一日(いちにち)食料(しょくりょう)出来(でき)たとはいうものの、(した)()がいまに()をさまして、(ちち)(もと)めて()(さけ)びはじめたら、どうしたらいいでしょうか。小牛田(こごた)までは、まだ四時間(よじかん)以上(いじょう)もあるでしょう。また、小牛田(こごた)()いても、それは(よる)十時(じゅうじ)ちかくの(はず)ですから、ミルクを(つく)ったり、おかゆを()てもらったりする便宜(べんぎ)()られないに(ちが)いない。

 仙台(せんだい)()けてさえいなかったら、仙台(せんだい)には()(さん)知人(ちじん)もいるし、途中(とちゅう)下車(げしゃ)して、(なん)とか(たの)んで()(こと)出来(でき)るでしょうが、ご(ぞん)じの(ごと)く、仙台市(せんだいし)(すで)大半(たいはん)()けてしまっているようでしたから、それもかなわず、ええ、もう、この(した)()は、餓死(がし)にきまった。自分(じぶん)三十七(さんじゅうしち)まで()きて()たばかりに、いろいろの苦労(くろう)をなめるわい、(おも)えば、つまらねえ三十七(さんじゅうしち)年間(ねんかん)であった、などとそれこそ(おも)いが(おろ)かしく千々(ちぢ)(みだ)れ、(うえ)(おんな)()(もも)(かわ)をむいてやったりしているうちに、そろそろ(した)(おとこ)()()をさまし、むずかり()しました。

(なに)も、もう()いんだろう。」
「ええ。」
()しパンでもあるといいんだがなあ。」

 その(わたし)絶望(ぜつぼう)(こえ)(おう)ずるが(ごと)く、
()しパンなら、あの、わたくし、……」
 という不思議(ふしぎ)(ささや)きが(そら)から(きこ)えました。

 誇張(こちょう)ではありません。たしかに、(わたし)(あたま)(うえ)から(きこ)えたのです。ふり(あお)ぐと、それまで(わたし)のうしろに()っていたらしい(わか)(おんな)のひとが、いましも(うで)()ばして網棚(あみだな)(うえ)(しろ)いズックの(かばん)をおろそうとしているところでした。たくさんの()しパンが(つつ)まれているらしい清潔(せいけつ)なハトロン()(つつ)みが、(わたし)(ひざ)(うえ)()せられました。(わたし)(だま)っていました。
「あの、お(ひる)につくったのですから、大丈夫(だいじょうぶ)だと(おも)いますけど。それから、……これは、お赤飯(せきはん)です。それから、……これは、(たまご)です。」

 つぎつぎと、ハトロン()(つつみ)(わたし)(ひざ)(うえ)()(かさ)ねられました。(わたし)(なに)()えず、ただぼんやり、(まど)(そと)(なが)めていました。夕焼(ゆうや)けに()えて(もり)真赤(まっか)()えていました。汽車(きしゃ)がとまって、そこは仙台(せんだい)(えき)でした。

失礼(しつれい)します。お(じょう)ちゃん、さようなら。」
 (おんな)のひとは、そう()って(わたし)のところの(まど)からさっさと()りてゆきました。
 (わたし)(つま)も、一言(ひとこと)(なに)もお(れい)()うひまが、なかったのです。
 そのひとに、その(おんな)のひとに、(わたし)()いたいのです。としの(ころ)は、はたち前後(ぜんご)。その(とき)服装(ふくそう)は、(しろ)半袖(はんそで)のシャツに、久留米絣(くるめがすり)のモンペをつけていました。

 ()って、(わたし)()いたいのです。一種(いっしゅ)のにくしみを(ふく)めて()いたいのです。
「お(じょう)さん。あの(とき)は、たすかりました。あの(とき)乞食(こじき)は、(わたし)です。」と。

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